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学問は何故するか 安岡正篤 活学講座より

大体学問というものは、物知りになるために勉強するのではないけないということです。
そういうことは本を読めばできるし、又、どこの大学でもそれぞれやっておることでありまして、
やはり根本的には、已(や)むに已まれぬわれわれの、
深い人間としての内面的要求を満足させるためである。
人間の一番尊い已むに已まれぬ良心・良知を、真理・道を学ばんがためである。
それを楽しまんがためである。

こういう学問をすることによって、端的に言うならば、
本当の自分を作るということのためである。
こういうことが第一であります。

第二に、絶えずわれわれが反省し、会得を深くしておかなければならぬことは、
人間というものは兎角経験に従って偏(だま)し易いということであります。
殊に仏教だの、儒教だの、宗教だの、哲学だの、
というような人間の誤り・惑いを救うことを本領とするもの程、
わが仏尊しで、偏するところ・僻するところが強くなる、という奇怪な事実であります。

小人玉を抱いて罪ありということがあるが、
凡(およ)そこの尊い真理だとか、道だとかいうものを抱いて、
これに私心・私情をさしはさんで、門戸を立てる、
嫉視排擠(しっしはいせい)をする、所謂派閥を立てる、
ということくらい本意に違うものはない。

これは禅や陽明学のもっとも忌むところであります。
従って私はよく陽明学者と言われるのでありますが、
言ってもわからぬ物にはわからぬから、にやにや笑っておるだけで、
そんなものは私の念頭にないのです。

禅や陽明学の大事なところは、単なる知的な問題でもなければ、
又一宗一派、門戸を立てるためでもない。


活学講座―学問は人間を変える

昔の話ですが、私の周囲には、様々な思想学問を修得され、独自の考えを持つ人がいました。

彼らの意見を聞いていると、それぞれ他の考えと共通点があって、
詰まる所は同じ結論に到達していたりしています。
しかし、本人達は真逆の思想は別の物として考えます。

私は、自分の思想の位置をどのあたりに置くべきか迷っていた時期がありました。
どの考えにも学ぶ所があって、優劣を付けるのはおかしい。
そして、どれかに縛られるのも自分らしくない。柔軟性を失うと。

そんなとき、安岡先生のこの言葉に出会って、(別の本ですが)
「そうそう、そのスタンスがしっくりくる」と、ストンと悩みが落ちた気がしました。
そもそも、私が東洋哲学を始めた理由は、人を教化するなんて大きな理由ではありません。
「自分自身をより深めて、害のない人間になろう」という動機からでした。
それによって周囲に変化を与えても、それは相手の自由として、口を挟んだりしないでおこうと。

学識は全く及びませんが、学問に対するスタンスは、安岡先生のそれと全く同じだったので、
当時は生意気にも「安岡先生の書籍を読んでいると、自分が喋っている様な錯覚におちいる」と吐いたものです。
でも、それは嘘ではありませんでした。
安岡先生が「陽明学者」という枠をはめられて、にやにやしている心境に共感しました。
だから「弟子入り」とか「入信」というものに対し距離を置いていました。
元来の気質もそうですが、思想面に関してはなおさら束縛されるのが嫌でした。

本当に自分を成長させたければ、排他する思想なんてないのです。
優れた人物に会い、見・聞き・読み、その人間を形作る物は何なのかを見据えるのです。
そうすれば、人間学的引き出しが増えて、様々な思想の人間と共感でき、解り合える様になると思うのです。

それを一番痛感したのが、自動車のメカニックとして生きてきた技術屋さんと話をした時でした。
彼の言う車の理論が、私の知っている人間学の知識と重なる部分が多々あって、
お互いに「凄い勉強してきたな。本質では何事も繋がっている」と、
文系分野と理系分野で意気投合したことです。
こういう事が有るから、自分が文系だとか、理系だとか、右翼だとか、左翼だとか、
仏教だとか、キリスト教だとか、分けて考える事自体勿体ないと思うのです。

ただ、実感したのは、ただ無作為にあれこれ手を広げても駄目なこと。
一つの思想を考え方から実生活まで浸透する程、本質的に勉強し、
極めたと思える様になってから他の思想を学ばないとなかなか理解はできない事です。

例えれば、テレビで芸能人が一時チヤホヤされて、その時はその芸能人との繋がりを主張するのに、
一年後パッとしなくなったら、悪口すら言い出す。これと同じです。
それに対して本質的な理解がないため(浅薄なため)、「人気が無くなった事」「飽きた」が嫌う理由になるのです。
その事象に対するマイナス面や、自分自身が飽きやすいという事まで学んでいないから悪口・不平が出るのです。
これは人間や他者が尊ぶ思想に対してならば、無礼な話です。
その事象の本質的価値は変わっていないにも関わらず、
受け手側の不理解がその価値を低くしているだけなのです。

あらゆる思想を受け入れる・価値を認める準備=自分に合っている学問をとことんやってみることだと思います。

あくまでも私の主観ですから、他の方の意見もあると思います。
ですので、皆さんにお勧めするわけではありません。
ですが、一人の若輩のお考えとしてお聞きいただければ幸いです。

私の周囲には、それぞれ学識や思想、経験を深められ、尊敬する人達ばかりです。
私の自由奔放な考え方にも理解して下さるのですから。本当に有り難いと思っています。
このブログをご覧の皆様にはいつも感謝しております。
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theme : 文明・文化&思想
genre : 学問・文化・芸術

tag : 人間学 安岡正篤 学問 活学

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