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十七条憲法 第五条の解 安岡正篤 人生の大則より

裁判に当たる役人は、特に貪婪(欲深い)の心を捨てて、
もっとも公明正大に人民の訴訟を裁かねばならない。
いったい、人民の訴えというものは、毎日たくさんあるのであるから、
年月を累(かさ)ねると、多くの事件が堆積することとなる。
聞くところによると、このごろの裁判官は、私利をはかることを常とし、
賄賂の多少によって、裁判を手加減しておるということである。
財ある者の訴えは、石を水に投げると反響があるように、
ただちに有利に解決をつけてやり、その反対に貧しい者の訴えは、
水を石に投げつけても、何の反応もないのと同じく、
一向手ごたえがないということである。
それでは貧乏人たちは頼るところがなくて、結局臣たる者の道も立たぬことになるのである。

人生の大則―人間学講話

その頼るところが無くなった貧乏人達はどうするか…。
反逆や悪徳に走るか、泣き寝入りするしかないのである。
これではますますマイナスの輪廻が続いてしまう。

「本を正す」という意味の大切さを痛感する。
裁判官は「正しい裁判」ができなければ、誰でも勤まるのだし、そもそも不要だ。
そんな職務にコストを掛けるだけ無駄である。

「正」「邪」の選択の塩梅で判決を誤ってしまう事は、人間である以上仕方ないかもしれないが、
そこに全く無関係な概念である「損得」や「金銭授受」が入り込んで判決が揺らぐのであれば、
同情の余地もない。

広い意味では、世のひとりひとりが、或る意味で裁判官である。
自分の正邪の判断基準を持っている。
それで、他者を判断したり、物事の価値を決めたりする。
世の成り行きを観て、「これではいけない」とか「改善しなくては」と判断するのは自分であり、
「邪」と思うなら「判決」した上で「行動」に移らなくては、世の中いつまでたっても正されない。
「正」と考えれば、それをどう広めるのか考えなくては、何事も進歩しない。
この状況で、お金や損得や名誉の為に、「正」を排除し、「邪」を受け入れてしまったら、
悪い裁判官と何ら変わらない。勇気がないのだ。
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theme : 文明・文化&思想
genre : 学問・文化・芸術

tag : 安岡正篤 聖徳太子 十七条憲法

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