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人の希望は、初め漠然として大きく・・・ 正岡子規

人の希望は、初めは漠然として大きく、後、しばらく小さく確実になるならひなり。
墨汁一滴より

【後の文章】
   我病身牀に於ける希望は、初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし。庭の内だに歩行き得ばといひしは、四五年前の事なり。其後一二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからんと、思ひしだに、余りに小さき望みかなと、人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、坐るばかりは病の神も許されたきものぞなど、かこつ程になりぬ。しかも、希望の縮小は猶ここに止まらず。坐る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとは、きのふ今日の我希望なり。小さき望みかな。最早、我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度にまで達したり。この次の時期は、希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ、耶蘇はこれを救ひとやいふらん   


東西名言辞典 (1969年)
現在の子規庵に於いて、子規の病状が悪化するに従って持ちうる希望が小さな物へ変化していく事が分かります。
夏目漱石等友人が、あらゆる方法で子規の不自由を哀れみ、外界と接する方法を提供していく。

「庭の内だに歩行き得ばと」
  ↓
「歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん」
  ↓
「坐るばかりは病の神も許されたきものぞ」
  ↓
「せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば如何に嬉しからん」
  ↓
「この次の時期は、希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ、耶蘇はこれを救ひとやいふらん」

病に死に逝く人間が、これだけ達観して自分を観ている点は子規らしさなのだろう。
子規というペンネームも自虐的であるし。

耶蘇とはキリストの事です。

自分の於かれた状況をより深く知ってしまう事は、或る意味不幸である。
癌の告知・非告知の問題も其れに近い。こういう状況になった時に人間は様々な行動になる。
「いつも通りの生活を送る」「悔いの無い様に人の倍の速度で生を味わう」「精神的に病んでしまい臥せってしまう」
正解という物は無い。

子規は、倍の速度で生きる事を選んだ。

自分だったらどうするのだろうなどと想像するのは遊技に等しいが、毎日を真剣に生きる為には、
何時死んでしまっても良いという覚悟があれば、そういう境地に達する事が出来る。
死を意識する人生。言葉にすると暗くなってしまいそうだが、死という物を無差別な物と受け容れれば、別の捉え方が出来る様になると思う。

現代人と古人との死の意識の高さは違うと思う。古人はあらゆる危険を抱えて生きていたが、戦後に生まれた人々は安全に生きて来れた。
それは幸いな事であるが、死を大切にしない人間は、生も大切に出来ない。簡単に人を殺したり、自殺したりしてしまう。
亡くなった人への追悼の思いも忘れやすくなる。そこから発展し家族の形も異形を為す場合がある。全ての人ではないが。

社会問題の根源にこうした価値観の変化が影響しているのではないかと、現代人と古人を比較すると感じる。

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theme : 文明・文化&思想
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tag : 正岡子規 墨汁一滴 死の意識

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